200708
ジャンボ尾崎(西鉄ライオンズ→ゴルファー)
2007 / 08 / 30 ( Thu ) 09 : 31
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ジャンボ尾崎は、元プロ野球選手だった事は知っているか?
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200708
相撲力士からプロ野球へ転身??
2007 / 08 / 22 ( Wed ) 09 : 07
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ずいぶん前の話ですが、ある知人から相撲業界からプロへ入団した選手がいるというのを聞いた事があった。
えええええええええええええええええ!!!相撲から野球!!! しかもプロ野球へ入団だって!!! 良く調べてみるといましたよ。。この人ですよ。この人。 ![]() 市場 孝之(いちば たかゆき 1970年9月8日 - )内野手。右投げ右打ち。和歌山県出身。 中学時代は野球、相撲両方で活躍。中学卒業後の1986年、佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴市場という四股名で力士として活躍。初土俵からわずか6場所で序二段42枚目まで昇格したが、左膝の捻挫の為1987年秋場所限りで廃業した。 翌1988年、国際開洋第一高等学校に入学し野球部に入部。 その後ロッテの練習生を経て1991年、ドラフト7位でロッテから指名を受け入団した。一軍出場機会が無いまま1993年限りで現役引退。(ウィキペディア) 情報がこれしかなかったが、実際にどんな選手だったのかはデータ不足の為、不明である・・ 何せ一軍には一度も出場できなかったわけで、、また高校も野球名門高校ではないようだ。 どういう経緯で入ったのだろうか。。 井出らっきょの証言(こちら参照)によると そうとうなワルだったようで、どうしようもなく相撲部屋に入ったらしい。 実際の写真ではとてもそうは思えない・・・・ その後、怪我をして相撲界を引退、高校に入学した。 彼の経歴からすると2浪で高校入学したわけだ。 しかも、この国際開洋第一高等学校は、静岡にある。市場の出身は和歌山であるのに静岡の高校へ通ってた。その理由も不明だ。 そして、高校では4番を打ってたらしいが、どんなきっかけでロッテが目をつけてドラフトにかけたかも不明だ。 引退後、ドカベソ(ン)こと香川との社会人野球のコーチも務めてたらしく 2007年3月2日に福岡を拠点とする社会人野球チーム『嘉麻市バーニングヒーローズ』を結成。 自身は監督を、井手らっきょが選手会長を務める。 現在は、マスターリーグの福岡のドンタクスに所属して地味に活躍している。 いや〜こいつはある意味、凄い武勇伝だぜ!!! 地元の情報キボンヌ!! |
200708
巨人軍の永久欠番 背番号4
2007 / 08 / 16 ( Thu ) 09 : 41
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この間、Y氏の家を訪問し帰宅途中、道に迷ってしまい同じ道を何度も通過していくうちに
同僚と車の中で巨人軍の永久欠番の話しがでた。なぜそんな話しになったのか疑問なのだが・・・・ 永久欠番ってプロ野球選手にとっては非常に名誉あることで、要は自分がつけてた背番号が永久に保存されるという事だ。 昨年、東京ドームへ行った際に、その永久欠番と呼ばれるユニフォームが目立つところに飾ってあった・・背番号1番、3番、4番、14番、16番、34番・・・ あれ?ちょっと待て、、 王の1番、長嶋の3番、4番・・・沢村の14番、川上の16番、金田の34番 何かの見間違いだろうか・・4番って誰っすか?? 張本?いやいや、10番だし・・・土居あたりかな?やっぱV9戦士の一人だろうか・・・ 調べていくと、どうもその4番は黒沢俊夫という人物が付けてた番号というのが発覚した。 ![]() 生涯打率:259 本塁打:7 打点:216 盗塁:80 誰だ??この黒沢って人は・・・黒江の間違いじゃないの? ていうか、まず、この数字で、なぜ永久欠番になったのか知らない人も多いのではないか。 黒沢は戦時中の選手だったようです。当時の巨人軍は職業野球という位置づけで人気も全くありませんでした。太平洋戦争で多くの主力が欠けてしまいプロ野球は、最悪な低迷期を迎えてました。 昭和21年(1946年)にプロ野球が再開されても、人気は全くありませんでした。戦後、食料不足の中、なぜ野球を・・・そんなノリだったんじゃないでしょうか。 そんな中、巨人からの復帰要請に真っ先に答えたのが黒沢だったそうです。 「昭和の侍」とでもいうのか。。。 誰よりも巨人のことを第一に考え、その情熱は半端なく巨人を愛してた人だったようです。 川上哲治の代わりに4番を打ってた時期もあったようです。 ですが、翌47年(昭和22年)当時不治の病といわれた腸チフスのため33歳の若さで死亡。 これから巨人を盛り上げていこうとした矢先の出来事だったようです。 その彼の存在を忘れないようにと千葉茂選手が背番号4を永久欠番にしようと球団に呼びかけ沢村投手の14番とともに日本球界初の永久欠番になりました。 成績に関係なく永久欠番にまでなっちゃうんだから、いい奴なのは間違いないんだろうね。 語呂合わせ的に「4は死に直結する」事が永久欠番になった理由であるという説は否定はされているが、「本当に死に直結してしまった」事を考慮すると嘘であるとは言えない。(ウィキペディア) マンガの世界においても、やはり背番号4をつけた「侍ジャイアンツ」の番場蛮が現役選手のまま死亡した。(ウィキペディア) もう一つの噂話としては、亡くなった日にグラウンドで黒沢選手を見た選手が何人かいたらしい。。その理由で、彼の事を欠番にした説。(Yahoo!知恵袋より) 巨人ファンなら「黒沢俊夫」を是非、知っておきたいところだろう。 その他、永久欠番になった選手 阪神タイガース 10-藤村富美男(三塁手) 1958年11月30日 11-村山実(投手) 1972年11月2日 23-吉田義男(遊撃手) 1987年10月13日 中日ドラゴンズ 10-服部受弘(投手・捕手) 1960年3月20日 15-西沢道夫(投手・一塁手) 1959年3月15日 尚、永久欠番は今後、余程の事がないと、現れる事はないようです。 理由としては背番号がドンドンなくなっちゃうから・・だそうです。 |
200708
小松 辰雄 中日ドラゴンズ
2007 / 08 / 10 ( Fri ) 06 : 56
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小松 辰雄について語りたいです。
石川県羽咋郡富来町(現志賀町)出身 178cm、82kg。右投げ右打ち 高校は星稜高等学校3度甲子園に出場している。1976年夏、1977年春、1977年夏。 町内の小学生が集まり記録を競う「陸上競技記録会」のソフトボール遠投にて90mを超える記録を残す。この記録は現在に至るまで破られていない。(ウィキペディアより) 小学生が90M???ありえないよ。。 小松辰雄の公式HP ![]() 1979年、プロ野球界は、初めてスピードガンを導入しました。 小松は、このスピードガンによって150キロを超える剛速球を投げていることがわかり「スピードガンの申し子」として有名になる。 小松が投げた最高球速は154キロ。当時まだ19歳であった。 因みに村田兆治は149キロだったようです。 これが小松=剛速球と言われてた由来である 背番号34で1982年(僕の中では黄金時代の中日)で最後のリーグ優勝を決めた。 それからしばらくして背番号20、そう中日ではエース番号と言われる番号を引き継ぐ。(前任者は星野で今は仲田が引き継いでいる)最優秀防御率、最多勝利、最多奪三振、沢村賞、ベストナインなどタイトルを獲得している。 まさに・・・中日のエースだったと言えます! 実際に名古屋球場で小松の投球練習を生で見たことがあるが、尋常でないスピードだった。 隣に都がいたと思うがスピードは桁外れで小松のほうが速かった。 ところが、1989年あたりに肩を故障して離脱してしまうが、日本シリーズの西武戦で復帰した。 そのときの小松の涙が中日スポーツの一面に載ったときは感動しました。 晩年は中日の兄貴として若手から慕われていた。 最後の引退試合は、子供の頃から小松のファンだったイチローと対決。 イチローは2塁打を打った。 因みに小松は現役のときは、 星野仙一の子分だったようだ(宇野もそうだったらしい) 1995年〜1997年 中日の投手コーチ。 1998年〜 CBC解説者、中日スポーツ評論家でもある。 その他、プロ野球を沸かせた選手の行方 プロ野球選手のその後:中山(元大洋) プロ野球選手のその後:新浦(元巨人→大洋) プロ野球選手のその後:藤王(元中日→日ハム) プロ野球選手のその後:近藤真市(中日) プロ野球選手のその後:伊良部秀輝(ロッテ→ヤンキース) プロ野球選手のその後:板東英二(中日→タレント) プロ野球選手のその後:江川卓(巨人→タレント) プロ野球選手のその後:遠藤(大洋→解説者) |
200708
遠藤一彦 (元大洋)
2007 / 08 / 07 ( Tue ) 08 : 25
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遠藤一彦
ある知人が大洋の遠藤を調べて欲しいという事で興味があり調べてみました。 公式ホームページもあります。 僕が知る大洋は低迷期の頃だったが、その中でも遠藤投手は抑え投手としての記憶がある。斉藤、遠藤・・このピッチャーが大活躍してた頃だろうか。 あまり記憶がないが名前は聞いた事ある・・そんな感じです。 調べていくうちにこの遠藤一彦は、野球人として尊敬できる投手であるという事がわかった。 横浜大洋ホエールズと共に生きた男なのである! ![]() 1955年4月、福島県生まれ。投手。右投右打。背番号24。 学法石川高校から東海大に進み、1978年にドラフト3位で大洋に入団 原辰徳と同じ大学でプレーした。また江川卓には同じ年、同じ出身地という事で相当なライバル心を持ってたらしい。 著書に『江川は小次郎、俺が武蔵だ!』を出版しちゃってますね。 プロでの通算勝利数も、江川が135勝、遠藤は、134勝と近い数字も何か因縁を感じさせる。 遠藤がちょうど入団したときは「大洋ホエールズ」から「横浜大洋ホエールズ」に変ったらしくまた引退のときは「横浜ベイスターズ」に変った。 まさに、横浜大洋ホエールズの為に生きた男である。 そんな遠藤ですが、1987年 10月3日の対巨人戦で、巨人二塁手・篠塚利夫の失策で出塁すると、続く1番・高木豊の二塁打で三塁に向かうが、その走塁中に右足アキレス腱を断裂。(ウィキペディアより) こりゃ、死ぬほど痛い思いをしたでしょうが、 とにかく、責任感が強い男である。 当時、絶好調だったウォーレンクロマティーは、良く相手投手に「おまえとは俺は違うんだよ。」とばかりに自分の頭をつつきながら挑発してた。(僕はふざけんな!大リーガーの落ちこぼれがぁと思ってたが。。)それに対抗したのか、遠藤は、クロマティーを速球と見せかけてフォークで仕留めた後、 自分の頭をつつき「おまえとは違うんだ」という挑発をクロマティーに返した場面は有名である。 遠藤の引退試合は、消化試合であったが、横浜スタジアムを満員にしファンに感動を与えた。その試合は巨人戦の消化試合だったのにあの横浜スタジアムを一人の男だけで満員にしたのである。 これは投手という枠を超えた一人の人間として凄い事なのである。 通算成績 : 460試合134勝128敗58セーブ 1993年〜1996年 TBSで野球解説 1997年〜2003年 ベイスターズ投手コーチ 2004年〜 TBSラジオ等で野球解説、野球教室、講演などの活動 CM、旅番組、クイズ番組、料理番組などに多数出演 (遠藤の公式ホームページより) やくみつるは遠藤のファンらしい。 俺も今更ですが、ファンになりました! 因みに学生のときは、建築家を目指してたという情報あり! その他、プロ野球を沸かせた選手の行方 プロ野球選手のその後:中山(元大洋) プロ野球選手のその後:新浦(元巨人→大洋) プロ野球選手のその後:藤王(元中日→日ハム) プロ野球選手のその後:近藤真市(中日) プロ野球選手のその後:伊良部秀輝(ロッテ→ヤンキース) プロ野球選手のその後:板東英二(中日→タレント) プロ野球選手のその後:江川卓(巨人→タレント) |








